文明開化の象徴的な建物である鹿鳴館。
いったい誰が、何の目的で建てたものなのでしょう?
このページでは「鹿鳴館に託した夢」についてまとめました。
『鹿鳴館』とは、諸外国の賓客や外交官を接待するために建てられた社交場&迎賓館。日本という国をプレゼンテーションする、明治時代の欧化のシンボルです。
『鹿鳴館』が完成したのは、明治16年(1883年)のこと。西欧風の近代化の波をかぶり、様々なものが姿を変えていく時代でした。その明治16年から4年あまりの時期は“鹿鳴館時代”と呼ばれます。欧化主義に傾倒した一時代を象徴する建物です。
『鹿鳴館』の建設を推進した中心人物は、当時の外務卿(外務大臣)井上馨。
鹿鳴館建設の背景には、江戸時代末期に交わした不平等条約の改正という悲願がありました。文明国(欧米からみた文明国)としての日本のレベルを示し、西欧諸国の日本蔑視を改めさせ、対等な外交交渉を望む当時の指導者たちの哀しくも熱い想いがこめられた建物です。
着物にちょんまげ、日本髪だった人たちが、男性はザンギリ頭に燕尾服、女性は鯨の骨のコルセットでお尻を膨らませた西洋風のドレス姿に変身し、西洋の音楽に合わせて手を取り合って踊る…。
わずか十数年前まで江戸時代だったことを考えれば、『鹿鳴館』で繰り広げられた舞踏会は、当時の人々にとっては昼と夜がひっくり返ったような奇怪な光景だったことでしょう。
鹿鳴館と、そこで繰り広げられた舞踏会は、明治の日本が精一杯頑張った欧化の姿でしたが、西洋人たちからは「猿真似」と嘲笑を浴びました。
たしかに、急ごしらえの西洋化はたしかに滑稽だったでしょう。でも、誰もが喜んで洋装に身を包んだわけではないでしょうし、「なぜこんなことになったのやら…」と、内心では苦笑いを浮かべていたかもしれませんよね。
たとえ『鹿鳴館』のきらびやかな世界が虚飾にすぎず、うわべだけの西洋化だったとしても、欧化を「すべきこと」と信じ、慣れない靴に無理やり足を押し込んで『鹿鳴館』に向かった人々の姿を思うと、切なさとともに、日本人の気概も感じるのです。
それにしてもドレスを最初に着たときの感想はどんなものだったでしょう。きっと足がすかすかしていたことでしょうね。
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鹿鳴館の歴史
鹿鳴館跡〜夢の跡をたずねて〜
鹿鳴館の姿を求めて〜江戸東京博物館〜
鹿鳴館のシャンデリアをたずねて〜燈明寺〜その1
鹿鳴館のシャンデリアをたずねて〜燈明寺〜その2
鹿鳴館の階段をたずねて〜東大建築学科〜
三島由紀夫の『鹿鳴館』
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鹿鳴館と人物伝〜ジョサイア・コンドル〜