まばゆくスポットライトを浴びた“鹿鳴館時代”が終焉を迎えると、『鹿鳴館』はひっそりと役目を終え、やがて昭和15年に取り壊されました。いつしか名前だけが明治・文明開化へのノスタルジアとともに語り継がれていきます。まるで建物としての『鹿鳴館』など最初から存在しなかったかのように……。
果たして現代の東京に、『鹿鳴館』が存在した証は残っているのでしょうか?
『鹿鳴館』は、現在の住所でいうと東京都千代田区内幸町にありました。明治時代の地図と現代のとを見比べてみると、『鹿鳴館』の建物があったのは、日比谷の帝国ホテルの隣、いまはNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が建つあたり。そして、その隣のNTT日比谷ビルからみずほ銀行に至る敷地に、『鹿鳴館』の庭園が広がっていたようです。
実は私、『鹿鳴館』がどこに建っていたのか?…ということを、今回調べてみるまで知らなかったんです…。 みなさんはご存じでしたか?
「そういえば、私も知らないわねえ」という方も意外と多いと期待して、あるいは「知っているけど、実際に行ってみたことはないね」という方のために、「鹿鳴館跡」についてレポートしますね!
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「鹿鳴館跡」の最寄り駅としては、地下鉄の日比谷駅か内幸町駅でしょう。でも私は、JR有楽町駅からスタートしてみました。
JR有楽町駅から日比谷方面へ足を向け、東京宝塚劇場の脇を通って帝国ホテルの前へと向かいます。(下の写真は帝国ホテル)
帝国ホテルの敷地に沿って右へ曲がり、日比谷公園を正面に見ながら進みます。
すると、「この附近の江戸時代」と書かれた古地図の案内図(下の写真)を見つけました。おぉ、いいタイミングで地図が現れたゾ♪
案内図によると、帝国ホテルが建っているのはかつての陸奥白河藩邸(阿部家)があった場所。そのお隣は「薩摩鹿児島藩 松平薩摩守【島津】斉彬」と書かれています。
そう、この薩摩藩邸が、明治時代になると『鹿鳴館』に姿を変えるわけです。ちなみに島津斉彬は、08年大河ドラマのヒロイン「篤姫(のちの天璋院)」の養父ですね。
案内図を確認して、再び「鹿鳴館跡」をめざして歩き始めます。日比谷通りに出たらそのまま敷地に沿って左へ曲がります。
帝国ホテルの正面入り口前を横切り、ホテルの塀が切れると(下の写真で左側に人が映っているところ)NBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の敷地になり、ビルの前は広いエントランススペースになっています。
そして、ここが「鹿鳴館跡」なのです!!
「鹿鳴館跡」の証を探してみると・・・。
ありました、ありました。帝国ホテルとの境にめぐらされた塀に、「鹿鳴館跡」という証拠の碑が埋め込まれていました。塀の黒いプレートが「鹿鳴館跡」の碑です。
石碑に刻まれた文章は以下の通り。
「鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であって
その黒門は戦前まで国宝であった
この中に明治十六年鹿鳴館が建てられ
いわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった
千代田区」
さて、石碑から目を離して、ぐるりと90度身体を回転させ、実際の「鹿鳴館跡」を眺めてみます。
ちょうどNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が建っているあたりに『鹿鳴館』の建物がありました。
いまのビル正面が、『鹿鳴館』の側面にあたるわけですね。
ここに鹿鳴館があったのかぁ……。と、ちょっと感慨深いものがありました。
でも、『鹿鳴館』の存在の証として石碑があるのみで、面影を伝えるものは何もないのが淋しい限りでした。
『鹿鳴館』は、銀座や新橋に住む“元・江戸っ子”たちの目にどう映っていたのでしょう?
『鹿鳴館』へと向かう人力車や馬車をどのような目で見送っていたのでしょう?
当時を偲ぶ手がかりは、ここにはありません。
大和生命ビル前に置かれた球形のオブジェを写真に撮ってみました。
オブジェに映り込んでいる左側のビルがNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)、右の白いビルは帝国ホテルです。 明治23年、鹿鳴館に替わり迎賓館としての役割を担ったのが、この帝国ホテルでした。
(撮影:2007年11月)
※追記
大和生命保険は、2009年4月30日、プルデンシャル ファイナンシャル ジャパン生命保険株式会社に商号変更。ビルの名称も大和生命ビルからNBF日比谷ビルに変わりました。
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